140字では書けない

アラサー異常独身男性

読書ができない労働者

毎年ノーベル文学賞の発表前にテレビ中継される荻窪のカフェがある。


村上春樹ファンが集う例の喫茶店だ。


学生の頃の私は、そこでテレビ中継されているハルキストに対して「いかにもサブカルくさい奴らやな」と思いながらも
″都会の分かる人たち″への憧憬をしっかり抱いていた田舎者だった。


ここ数年、性感マッサージとグルメだけが休日の楽しみになってからは、村上春樹の小説を久しく手にとっていない。


学生や無職でないと読めない本は間違いなくあるから、学生時分にはきちんと読書すべき、という旨のことを宮崎哲也氏がテレビ番組で語っていた。(※)


社会に出て数年で読書量がゼロになった人間としては、激しく首肯する。
労働を言い訳にしてはいけないが、確実に労働は読書から人を遠ざける。

では、仕事を休んでるときの私の読書の成果はというと、実は全く無かった。
読書数ゼロ冊。

暇なんだから何でも読めよ!という話なのだけど、ありあまる時間を前にしてもマルクス資本論村上春樹の長編を手に取る気には全くなれなかった。

会社には休み中の過ごし方を報告しなければならなかったのだが(どれだけ管理主義なんだ)、読書をしたということにして、適当に図書館や自分の部屋で見つけた本のタイトルを書いていた。
(後から軽く内容を聞かれたときのために、目次と適当に10ページくらいつまみ読みはした。我ながら姑息。)

そして、普通にスマホをいじって、「お仕事訓練」の時間を終えるというのが復帰直前の生活パターンだった。



村上春樹については、休職中に読んでしまうと社会と折り合いをつけながら自分の世界を作っている主人公像と自分を同一化してしまいそうで怖かったから、敢えて読まないようにしていたきらいはある。

本当に折り合いをつけるために必要最低限の業務能力向上であったり、泥臭い改善をすることなく、
春樹ワールドに引きずられて安易に社会のステージを一段または二段降りてしまうような、そんな厭世コースが怖かった。


厭世感はずっと持っているくせに、無能を自覚してるがゆえに保険をかけた生き方から離れられず、病む。ありがちな日本人だ。


そもそも、村上春樹の総じてスマートな主人公と違って、平凡に学業なり仕事なりをやってると平均以下のアウトプットしか出せず、説教されてばかりの人生を送る人間が大半だ。
私も平均以下の人間の一人。


ただ穏やかに生活するためだけでも多大なコストを払わなければならないそういう平均以下の人間が、
自己認識だけスマートで、俗世から半歩引いたような生活をするフィクションに憧れて、
それらを中途半端に実行してしまったら危険だと思っている。

ここで私が言いたいのは、いい歳のおっさんがフィクションと現実の分別できるか否かの話じゃなくて、村上春樹作品が厭世感を揺さぶり一般社会からドロップアウトをさせてしまう毒性を持っているということ。

昔からそう思ってるのは私だけですかね?
たぶん、言いたいことは分かってくれる人がいると思いますが…
例によってオチはありません。おばちゃんの駄弁りか。



※現在は政権の太鼓持ちみたいになった関西の某政治バラエティ番組での発言でした。今じゃ考えられない立派なトークもあったものだ。