140字では書けない

アラサー異常独身男性

情報学部のいちばん長い日(4)

(つづき)
前の大学を辞めて、今の大学に入ったとき「前の大学の友達にあっても恥ずかしくないように勉強をやってこう」と思っていた。

興味はあまりあったとはいえないけど、ひたすら授業を受けるのが真面目な学生だと言うつもりはないが、どんなことにもやる意義を何とか見出して、愚痴を吐きながらやってきた。
でも、自分をそうさせてきた駆動力・原動力ってのは、長い目で見たら自分を幸せにするものじゃなかったのかもしれない。

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情報学部のいちばん長い日(3)

今までのエントリはこちら

情報学部のいちばん長い日(1) - 140字では書けない

情報学部のいちばん長い日(2) - 140字では書けない

今回のエントリーが一連の研究室選びの記事のメインになります。

 

うちの学部の研究室決めはまずシステム上で学生が希望の研究室の登録をして、状況を確認する。そして、登録締め切りが一次二次・・・とあり、
それまでに希望学生で定員が超えている場合は希望者学生が話し合って、折り合いがつくならそのまま決定、つかなかった場合は教員による独自選考になっている。

今回は7月中旬にあった研究室登録の一次締め切り日をまるっと振り返りたい(これがタイトルの理由だった)
研究室希望の締め切り17時までを振り返ります。

 

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情報学部のいちばん長い日(2)

前のエントリーはこちら。

applefactorz.hateblo.jp

前回のエントリーで書いた進路についての内容は、7月以前に自分が考えていたことだ。
そのままその通りに研究室を決めることも出来ただろう。
しかし、7月に入ってから進路についての考え方に疑問が生まれてしまった。
今回のエントリーでは7月初旬に生まれた進路への不安要素について書いておきたい。

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情報学部のいちばん長い日(1)

久しぶりの更新。前の更新が7月頭だから約2ヶ月ぶりだ。
この間に将来について何度も悩み、考えて、やっと進むべき方向が見えてきた。
その間に考えたことをきちんと言葉にして記録しておきたくなったので、
いくつか記事を投下することにする。
「考えることは書くこと」だから(元ネタは教養科目の某教員)

 

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早朝ツイート

「情報学」で社会に貢献したいっていう1mmくらいの青臭い気持ち(だけ)はあるけどを打算的に生きるなら理解されない「情報学」なんかさっさと捨てて公務員の教養試験の勉強したほうがいいんだ

グループワークで喧嘩した子には保守的となじられるような人間なのに、実際には青臭い気持ちを捨てられないガキの部分があり、キャリア選択を現世利益を最大化するための手段と割り切れない。


○○研あたりで先生の薫陶受けて何か青臭い気持ちを持って、よく分からないITベンチャーに入社する人なんてのは、自分は正反対の人間だ、自分は保守的なんだと思っていたけれど、自分自身も実は同じなんだ。認めたくなかったが。

「どっかの研究室に行って人とマシンの調和」っぽいことやって、工学部の人に出せないような視点で仕事できないか、それでメーカーとか入っちゃって仕事できないだろうか、とか考えちゃってたんだよ。
おんなじでしょ、この青臭さ。
まず、情報学や認知科学やらで金稼いでるメーカーなんかねぇしな。

それに、仮に情報学を生かせるような事業を行きたい会社がもっていたとしても入社後配属を決めるのは会社だからはっきり言って大学(院)までの内容が活かせるようなキャリアに進める保障がないのが分かっていても、そういう青臭い妄想をしちゃうんです。
23歳でこれって、やっぱダメ人間だなぁ。

一連のツイートの考えにいたるきっかけになったのが、マイナビインターン説明会だった。今まで行きたかった会社の事業にいまいちピンとこなかった後、自分が昔から漠然とした関心があったのは何なのかと自問自答したらやっぱり「行動分析」「認知系」だった。。

ひとりの時間

1人になる時間が欲しい。
その時間が人より少し多く必要な人間だから、自分は他の人を戸惑わせてるのかもしれないと思うことが多いこの頃だ。

 

「社会性」「協調性」ってなんだって考え始める人間に天然ものの「社会性」はないかもしれん。
でも、自分は非協力的とかノリが悪い人間と評価されるのは心外だ。

このあとメシ食おうぜ!って授業の帰りに言われて、最初乗り気じゃなくても、いいぞ~といってそのうち乗り気になるくらいの適当さはある。

 

ただ、自分は1週間に1回はぼっち飯しないと心が休まらない。
引かれますかね?(汗

たまには1人になりたいってことあるでしょ?
その「たまに」が私には「週1~2」なんです。
月から金までいつもの友人と飯を食べるとか、なかなかきつい、って思ってしまう。これは友人が嫌いとかではなく。

 


有名予備校講師の林修先生が本でこれに関連するお話を書かれていた記憶がある。

いつも符牒の合う友人と話している人、場合によっては少し振り回されてると感じるようなグループにいつもいるくらいなら「孤独」になる勇気を持て。

とおっしゃっていた。

より突っ込んだ説明をすると、若い頃にいつも人といないと不安に感じる人も、孤独を経験することで年を取ったときに堂々と孤高の人として振舞えるのだ。孤独は人生に深みを与える・・・という旨のことを書かれていた(適当)

 

本ではそこで「ススメ」は終わりだったんだけど、じゃあ「ぼっち」が自然体
みたいな人間は逆に若い頃どうすべきなのかを林先生から教えてほしかったなとちょっぴり残念に思う。

想像だけれど、先生はそのような人間を肯定はしていないのではと思っている。

林先生やぼっち大好き人間は勇気を出して「孤独」になったのではなく、もとから一匹狼の素質が爆発して偏屈になったパターンではないか?
自然の流れにまかせて育った、アクの強い野菜みたいに。

あるがままだから、本人は何も苦しくない。勉強嫌いの子が勉強しないってのと同じかもしれない。
最初にちょっとぼっちの抵抗があるかもしれないけど、そこでぼっちに振り切れる人間はもともと才能がある←
流れやすい方向に流れた人間をストイックな先生が肯定は・・・しないですよねぇ。

 

孤独を楽しんでるつもりの人間と、孤独を嫌う人間の両方とも
居心地のいいところにいすぎてはダメなのかな。

 

ただ、こういう記事書いてると「みんなといっしょに動ける才能」がある人間が憎たらしく感じるw
「才能」を「才能」たらしめてるのは社会だ。でも社会が作り出す常識・価値基準は根拠がぐらっぐらで、時代と地域によって千差万別なんだから、そいつ自身の「形質」自体に価値なんかないと思って、悪い「才能」ばかりある自分を呪わないようにする。

根暗が賞賛される社会が夢に出てこないかな。